KitsShino

KitsShino’s blog

日本語英語脳内スイッチ活性化を目指す

「頑張る」ってどういう事?

 私は、自分自身の事を「自分に甘く、他人に(ちょっと)厳しい」奴だと自覚している。だが、そんな私でも北米人の自分への甘さには、日々、開いた口が塞がらない。例えば、テレビのリアリティーショーなどで、負けてその場を去る人の常套句「I am proud of myself!(私は、自分を誇りに思う)に、いやいや、根性が足りなかっただけでしょうと突っ込みを入れた日本人は私だけじゃないはず。

 

ウチの夫は、優しくて家事も上手にこなして、実家の両親にも細やかな気配りで、家族のことを第一に考える素晴らしいパートナーだが、粘りとか意地とか根性という言葉は辞書にないらしい。己の限界の手前でストップするので、キャパが小さい気がするが、それは彼だけのせいじゃなくて、北米社会全体或いは英語思考の副作用とでも捉えるしかないだろう。一般的に、日本人は「頑張れ」と言われたら「自分の持てる力以上を出し、結果を出すんだ」という意味が込められているとわかるが、何故かこれが英訳されると「Do your best」とか「Work hard」になってしまう。英語にはそれ以上の「頑張り」は、存在しないのか?残念ながら、私には見える「Do your best」の先は、夫の青い目には見えていないし、見えようがない。それでも、夫婦は繋がっていられる。

 

余談だが、台湾系カナダ人で日本語検定1級保持者の友人曰く、北京語の「加油」は、日本語の「頑張れ」と同じ意味らしい。

ジャマイカ料理の食べ歩き

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父親が、熱帯病を研究していた関係で子供時代をジャマイカで過ごした夫は、ジャマイカ料理に目が無い。丁度、職場でジャマイカ人の同僚に、美味しいレストランがあると聞いたので夫を誘ってみたら、案の定誘いに乗って来た。私の実家の両親も珍しい食べ物に目が無いのでブランチ確定。

 

最初のレストラン「Calabash Bistro」は中華街の外れ、ギャスタウンの近くで治安の悪そうなロケーション、店内は快適でワンプレートのブランチも美味しかったが、何だかちょっとお上品⁈

ヤギのカレーもジャークチキンもソルトフィッシュも付け合わせのソースも色んな香辛料でしっかり味が付いていて美味。ブラックビーン入りのライスも日本人好みで大満足!ただ、本場ジャマイカ料理を知る夫にはボリュームとパンチがイマイチで食べた気がしなかった様だ。その次の週は夫の提案で、Main Streetにある「Reef」。2週連続ジャマイカン家族ブランチでも、誰も異議を唱えぬほどジャマイカ料理にハマってる我が家の面々。パティもロティもカレーもボリュームがあって、付け合わせのソースも辛め。チキンの味もしっかりして、ジューシーで柔らかい。今回、フィッシュタコスも頼んでみたが、そちらはパンチがイマイチだった。

量も値段も庶民派の「Reef」の方が夫好みで、ジャマイカ料理に関してビギナーの私は「Calabash」の方が好きと意見が別れたが「ジャマイカ料理が美味しい、また行きたい!」という事で家族全員意見がまとまった。

移民・難民は「They」じゃなくて「Us」なのだ

アメリカでは、トランプ大統領が大統領令を発して不法移民を取り締まっている。不法滞在者だから、強制送還しても問題なかろうという意見と、家族がバラバラに引き離され強制送還された方は命の危険にも晒されかねないのは人道的ではないという意見が激しくぶつかり合って連日ニュースでも討論されている。

 

モザイク社会カナダで、様々な文化や人々との出会いに興味津々な私は、多文化な職場環境も手伝って常にいろいろな国籍の同僚と話したり、ご飯を食べたり、仕事で助け合っている。チームの中には難民としてカナダに来た人や、カナダ留学から移民になった人など、様々なドラマやストーリーを経てここにいる。私たち家族にとって、移民(厳密にいうと、日本生まれの私たちもカナダ在住の移民)や難民はテレビで見る悲しげな顔をした大勢の人たちではなくて、ちゃんと名前や家族を持った私たちの知人、友人なのだから、特定の人種や宗教を排斥するなど、考えられないレベルのridicule(適当な日本語が当てはまらない)なのです。

 

例えば、私の元同僚は、自国のエルサルバドルから命からがら逃げ出して4年半もの間、ロスアンジェルスで不法滞在者として過ごし、カナダへ難民として30年前に入国しました。その時の記憶をFBに掲載してくれたので、日本語に訳してたくさんの人たちに読んでもらいたいと思います。(本人了解済み)この話を読んで、心が温かくなればこの世も捨てたものじゃないと思っています。

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どうもありがとう、カナダ

今日は、私の家族にとって大切な記念日です。1983年8月、私たち一家は内戦中のエルサルバドルを後にして、30年前の今日、ここバンクーバーに到着しました。

ここからが、私たち家族の物語

1983年4月深夜に私の故郷、アカフトラでは政府側の兵士たちが勝手に家に押し入って、銃を私たちの顔へ向けながら、殺してやると言いました。当時6歳と7歳だった妹たちは、両親が床に寝かされ首に銃を突きつけられるという恐怖を目の当たりにしていました。末の妹は、制汗剤のスプレーを自分の目に噴射し、その光景が見えないようにしました。私の兄や姉たちは、何度も強姦した後に、銃で殺すと脅されました。ラッキーなことに、私たちの必死の祈りが通じ他のか、兵士たちは金品を持って行っただけで済みましたが、私たちの心には恐怖と驚愕が永遠に残りました。そんなことがあって、私たちの両親は、全てを投げ打ってでもアメリカへ渡る決心をしたのでした。

1983年8月、私たちは、身分を偽ってメキシコシティまで飛行機で移動して、そこからティワナへ行き密入国業者「コヨーテ」と会いリオグランデ川を渡りました。私たちは、8人家族と人数が多いので2組に分けられました。当時11歳だった私は、6際の妹を背負い、家族全員あの大きな川を泳いで渡り切りました。私たちは、全員無事にサンディエゴまで着き、「コヨーテ」の手配した飛行機でロスアンジェルスへ行ったのですが、持ち物は全て盗まれてしまったためにロスアンジェルスに到着した時には、その時着ていた服しか自分たちのものはないという有様でした。

ロスアンジェルスで、親戚たちと合流し、私たちの4年半に渡る不法滞在者としての生活を経て、両親はカナダへ渡ることを決めました。カナダのバンクーバーへ移民することになり、到着したのが丁度30年前、1987年3月2日でした。カナダ政府は、私たちをダウンタウンのホテルに滞在させてくれて、次の日には洋服や日用品を家族の一人一人に買い与えてくれました。

3年半が過ぎた1990年11月、私たち一家全員が晴れてカナダの市民権を得ました。当時、8人の大家族が一度に同時に市民権を得るというので記録的でもありました。

このような理由で、私はカナダに感謝しても仕切れません。そして、暗いトンネルの先には、光が待っているということを皆さんにも覚えていてほしいのです。

自己紹介

ブログを始めるきっかけ

 

この間、久々に翻訳してみたいと思えるストーリーに出会いました。普段は、日本語から英語への翻訳を得意としていますが、そのストーリーが英語だったので日本語へと翻訳した時に、普段から日本語の文章を書いていないと錆びついてくるのだと実感。脳内日本語・英語変換スイッチの活性化のためブログを書くことにしました。

 

1983年にパスポートを初めて持ってから今まで、日本、アメリカ、カナダで生活してきて、北米生活が日本での生活年数を上回り英語に押され気味な脳内スイッチに喝を入れながら続けていければと考えてます。

 

キーワード

 

既婚(小学生の息子1人)、国際結婚、ワーキングマザー、高齢出産、アラフィフ、海外在住、旅行・観光業界、移住、アメリカ、カナダ、通訳、翻訳、料理、食べ歩き、子育て、ヨガ、エクササイズ、健康、読書、アダルトADHD、政治、80年代洋楽、TED、Youtube、テレビ、子育て、バイリンガル教育、異文化共存、サードカルチャーキッズ、コミュニケーション、アイデンティティクライシス、3世代親子・・・