KitsShino

KitsShino’s blog

日本語英語脳内スイッチ活性化を目指す

女子力のダイバーシティ

先日、国際女性デーに因んでSNSや、テレビでも世界中の女性たちが「女性の地位確立、権利向上」など真剣に取り組んでいる姿が見られた。中でも興味深かったのが、選挙期間中から何かと比較されているミシェル・オバマ元大統領夫人とメラニア・トランプ現大統領夫人が、どのように国際女性デーを過ごしたかという記事。ミシェルさんが、ワシントンDCで移民の子供たちが通学する学校に突撃訪問して生徒たちと対話したのに対して、メラニアさんはホワイトハウスで昼食会を催し、平等と自由の大切さについてスピーチをした。

www.washingtonpost.com

www.cnn.com

別に自分のブログで、どっちがどうだと偉そうに言う気はないけれど、この二人ほど「女子力」の使い方が異なると逆に面白くてしょうがない。

 

ミシェルさんが、若い頃は弁護士として仕事をしていたらしいが、もっと興味深いのは学生時代の彼女が社会学とアフリカ系アメリカ人研究をしていたことや自身がアフリカからの奴隷の子孫だと公言して、彼女の活動内容も言動もマイノリティ女性たちのお手本として100点満点に近い存在であると言う立場。影響を受けたり、勇気付けられたりした女性も多いはず。メディアでは、彼女のがっちりした体格や従来の美人とは異なった顔立ちで一部の人種差別主義者から猿呼ばわりされた事だってあるが、彼女の人気が揺るがないのは、目指すはセックスシンボル・・・じゃなくて、もっと別のところだから!多少肩幅があったって、黒人から「黒い」と言われたって、同性に好かれパワフルでユーモラスで逞しいミシェル姐御の株は、そう簡単に下がるものでは無い。

 

そして、美魔女のメラニアさんは恵まれた美貌とスタイルを世界中からの贅沢なファッションや装飾品で飾り、頭の先から足の先まで手入れが行き届いた容姿、大金持ち(後にアメリカ大統領)の夫とハンサムな息子と暮らすペントハウス、一見「女の幸せてんこ盛りライフ」を全て手に入れてる様に見える。その昔、GQ(男性ファッション誌)にヌード写真を載せるほどセクシーな魅力でプレイボーイのトランプさんを魅了しただけではなく、巧みな恋の駆け引きも出来る、ある意味「女のプロ」!彼女のシンデレラストーリーや、美しさに憧れる女子も多い半面、ここまで現実離れした(おまけに夫は世界の嫌われ者街道まっしぐら)彼女のライフスタイルは世界が遠すぎて受け容れられないと言うのが、彼女を支持する同性の少なさにも反映されていると個人的に受け止めている。

 

同じ職務(?)に就きながら、究極に違う女子力を持った2人の女性。女であるという以上にどういう風に女として生きるのか、選択肢が多い分迷いも出てくるだろう。「女はこうあるべき」という古い価値観に囚われず、自分の中の女子力がどの方向に向かっているのか見極め再確認するきっかけとなった国際女性デー。まずは、こだわりを取っ払って、自分らしく生きられたら後に続く世代に選択肢を増やしてあげられたことになるのではないだろうか?

 

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移民・難民は「They」じゃなくて「Us」なのだ

アメリカでは、トランプ大統領が大統領令を発して不法移民を取り締まっている。不法滞在者だから、強制送還しても問題なかろうという意見と、家族がバラバラに引き離され強制送還された方は命の危険にも晒されかねないのは人道的ではないという意見が激しくぶつかり合って連日ニュースでも討論されている。

 

モザイク社会カナダで、様々な文化や人々との出会いに興味津々な私は、多文化な職場環境も手伝って常にいろいろな国籍の同僚と話したり、ご飯を食べたり、仕事で助け合っている。チームの中には難民としてカナダに来た人や、カナダ留学から移民になった人など、様々なドラマやストーリーを経てここにいる。私たち家族にとって、移民(厳密にいうと、日本生まれの私たちもカナダ在住の移民)や難民はテレビで見る悲しげな顔をした大勢の人たちではなくて、ちゃんと名前や家族を持った私たちの知人、友人なのだから、特定の人種や宗教を排斥するなど、考えられないレベルのridicule(適当な日本語が当てはまらない)なのです。

 

例えば、私の元同僚は、自国のエルサルバドルから命からがら逃げ出して4年半もの間、ロスアンジェルスで不法滞在者として過ごし、カナダへ難民として30年前に入国しました。その時の記憶をFBに掲載してくれたので、日本語に訳してたくさんの人たちに読んでもらいたいと思います。(本人了解済み)この話を読んで、心が温かくなればこの世も捨てたものじゃないと思っています。

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どうもありがとう、カナダ

今日は、私の家族にとって大切な記念日です。1983年8月、私たち一家は内戦中のエルサルバドルを後にして、30年前の今日、ここバンクーバーに到着しました。

ここからが、私たち家族の物語

1983年4月深夜に私の故郷、アカフトラでは政府側の兵士たちが勝手に家に押し入って、銃を私たちの顔へ向けながら、殺してやると言いました。当時6歳と7歳だった妹たちは、両親が床に寝かされ首に銃を突きつけられるという恐怖を目の当たりにしていました。末の妹は、制汗剤のスプレーを自分の目に噴射し、その光景が見えないようにしました。私の兄や姉たちは、何度も強姦した後に、銃で殺すと脅されました。ラッキーなことに、私たちの必死の祈りが通じ他のか、兵士たちは金品を持って行っただけで済みましたが、私たちの心には恐怖と驚愕が永遠に残りました。そんなことがあって、私たちの両親は、全てを投げ打ってでもアメリカへ渡る決心をしたのでした。

1983年8月、私たちは、身分を偽ってメキシコシティまで飛行機で移動して、そこからティワナへ行き密入国業者「コヨーテ」と会いリオグランデ川を渡りました。私たちは、8人家族と人数が多いので2組に分けられました。当時11歳だった私は、6際の妹を背負い、家族全員あの大きな川を泳いで渡り切りました。私たちは、全員無事にサンディエゴまで着き、「コヨーテ」の手配した飛行機でロスアンジェルスへ行ったのですが、持ち物は全て盗まれてしまったためにロスアンジェルスに到着した時には、その時着ていた服しか自分たちのものはないという有様でした。

ロスアンジェルスで、親戚たちと合流し、私たちの4年半に渡る不法滞在者としての生活を経て、両親はカナダへ渡ることを決めました。カナダのバンクーバーへ移民することになり、到着したのが丁度30年前、1987年3月2日でした。カナダ政府は、私たちをダウンタウンのホテルに滞在させてくれて、次の日には洋服や日用品を家族の一人一人に買い与えてくれました。

3年半が過ぎた1990年11月、私たち一家全員が晴れてカナダの市民権を得ました。当時、8人の大家族が一度に同時に市民権を得るというので記録的でもありました。

このような理由で、私はカナダに感謝しても仕切れません。そして、暗いトンネルの先には、光が待っているということを皆さんにも覚えていてほしいのです。